ガイストスキャナー


アクアリウム

6 人質


「ジョン!」
廊下の向こうからエルビン医師が叫んでいた。
「先生……!」
ジョンは思わずそちらへ腕を伸ばした。が、男にそれを阻止された。それから薬の染み込んだ布で口を塞がれた。抵抗したが無駄だった。病気で体力の衰えた子どもの力では、腕力のある男のそれに叶う筈がなかった。
(いやなにお…い……)
薄れ行く意識の中でジョンは必死にもがき、医師に向かって叫んだ。
「先生、来ちゃだめ……。来たら…殺される」
(……キャサリンみたいに)
視界の隅に揺らぐ白衣……。耳の奥で木霊する男達の声。不規則に揺れて身体が硬い物にぶつかる。それは男の肩だった。
「どけ!」
男達は立ち向かう警備員や病院の職員達を銃で蹴散らし、通路を駆け抜けると、駐車場に止めてあった車に乗り込んでエンジンを吹かした。

「こいつはまさしく切り札さ。手の内にこのカードさえ掴んでりゃ、軍だろうと政府だろうと言いなりさ」
「英雄だとて所詮は人間。悪魔に息子の命を売ってまでヒーローであり続けたいとは思わないだろう」
「何しろ、ここは自由の国アメリカだ。他国の少年の命を奪っても、自国の少年の命は尊いのだろうからな」
テロリスト達が毒づいて笑う。
(連中はぼくを取引の材料に使うつもりなんだ)
少年の瞼に涙が浮かぶ。が、今は、指一本動かす自由さえ、彼には与えられていなかった。微かな嗚咽さえも喉の奥にへばりついたまま、路面の凹凸をじっと噛み締めているだけだ。
頭はひどく熱くなっているのに、胸の奥はやけに冷えきっている。
そんな心のアンバランスに少年は震えた。
(だけどパパはそんな弱虫じゃない)
ジョンは男達の言葉を強く否定した。
(英雄はいつだって冷静に判断し、間違いなんか犯さない。それが正義ならば、絶対に迷うことはない。感情に流されたせいで判断ミスなんかしない。だってパパは……英雄なんだもの)
ジョンはそう叫びたかった。だから、自分を人質にしても無駄なのだと……。
おまえ達の悪事は通用しないのだと告げてやりたかった。しかし、それはできなかった。薬のせいで、身体が自由にならなかったからだ。

(ぼくはこいつらにとって都合のいい取り引き材料にはならない。正義は絶対なんだ。決して間違うことはない)
その時、車がガクンと波を打ったように揺れた。
たちまち少年の心の中に一筋の黒い雲が過る。
(でも……パパにとってはどうなのだろう?)
不安の黒雲が広がった。
自分は、父にとって要らない子どもだったのではないかと思い当たって、少年の胸は愕然とした。
(パパは男の子が欲しかったと言った。軍に入って活躍できるような勇敢な男の子が……。けど、ぼくがこんな病気になってしまったから……)
父を失望させたのではないかと怯えていた。

――死ぬのが怖いか? パパもだ。だが、人間、いつかはみんな死ぬんだ

(わかってるよ。それに、いざとなれば一人の命より大勢の命の方が大事だってことも……。でも、やっぱりぼくは死ぬのは怖い! 病気で死ぬのと銃で撃たれるのとではぜんぜんちがう。それに連中は返事しだいではぼくに対してもっと酷いことをするかもしれない。だけど、ぼくは助けてって言っちゃいけないんだ。それに、声を上げて泣いてもいけない。ぼくはあなたの……英雄マグナムの息子だから……)

――強いのね、ジョン。この注射とっても痛くて、みんなわんわん泣いちゃうのよ

彼はどんな痛みも辛い検査も必死に耐えた。

――強いのね、ジョン

その言葉が勲章だった。
(我慢しなきゃだめなんだ。だってぼくは英雄マグナムの息子だもの)
醜態をさらす訳にはいかない。少年はずっとそう思って来た。常に父の後姿を追って来たのだ。憧れの父の軍服姿を……。

(もしも、連中が言うように、ぼくの命と他の大勢の命、どちらが大事かと問われたら、パパはどう答えるだろう)
考えるまでもない。父の答えはわかっている。父は正しい選択をするだろう。
(そうだね。わかっているよ。それに、ぼくだって、自分のせいで大勢の人が死ぬのはいやだよ。でも……)
命がそうやって取捨選択され、父によってその烙印を押されるかもしれないという恐怖が少年の胸を締め付けた。それは誇りある立派な―死―かもしれない。しかし、少年にとっては自分が期待を裏切った失敗作だと宣告されたのと同じ罪深さを持っていた。
(薬のせいだ)
ジョンは思った。
(たとえ、パパがどんな選択をしたとしても、ぼくに対する愛情が減る訳じゃない。パパはぼくを愛してくれている。心から、ぼくを……)
――病気が良くなったら、海へ潜ろう
(約束したんだ。休暇になったら、美しい魚達が泳ぐ海の底を一緒に見ようって……。深い海の底で……。何処までも自由な世界を、二人で追い続けようって……)


夕焼けは赤い絵の具を溶かしたように真っ赤だった。
「いやね。まるで血の色みたい……」
空手の道場から出て来た少女達が空を見上げて言った。
「ほんと、気味悪い」
別の少女も首を竦める。
「ねえ、リンダ、クレープ食べてかない? 生クリームたっぷりのやつ」
「……うん」
リンダは集団の中で一人、じっと何かを考え込んでいた。
(生クリームか。かわいそうに、あの子はまだクリーム系は食べられないんだろうな)
リンダは病院で会った少年のことを思い出していた。
まだ幼くて、彼女が帰ると言ったら恨めしそうな目をして見上げていた。純粋で真っ直ぐな黒い瞳。

(確かに、わたしは彼に骨髄を提供した。でも、それだけ……。わたしは彼のお姉さんじゃないし、これ以上の面倒をみてやる義務もない。だって、彼は……ジョンはわたしの弟よりずっと恵まれてるんだから……)
リンダは胴着を入れたバッグを固く握った。ジョンの父親が軍でも一目置かれている英雄マグナムだと知り、リンダはようやく得心したところだったのだ。
(だからこそ、少年一人のためにCIAまで乗り出して、真剣にドナーを探してた。ジョンが特別な存在だったから……。あの子が国にとって有益なマグナムの息子だったから……)
割り切れない思いが少女の胸の奥に蟠った。
丁度同じ年頃だったのだ。ジョンと彼女の弟は……。
病状もよく似ていた。なのに、何故、二人の少年の生死は分かれてしまったのか。
考えたくもなかった。が、事実は公然とリンダに辛い現実を突きつけた。
(もう会わない)
彼女はそう決めていた。ジョンに罪がある訳ではなかった。が、顔を見れば弟のことを思い出す。そうなればどうしてもジョンに理不尽な態度をとってしまうかもしれない。何も知らない子どもを傷つけるなら、いっそ会わない方がましだと思えた。
(そうよ。じきにあの子もよくなって退院すれば、わたしのことなんかすぐに忘れてしまう。人生なんて自分が思っているよりもずっと短いんだもの)
きっとそうに違いないと自分を納得させる。が、気づけば、偶然踏みつけた小石を必死に砕こうとしている自分に苦笑した。

「ねえ、ちょっと。リンダ、聞いてる?」
友人に突かれてはっとする彼女に、栗色の髪のミッチェルが言った。
「あんた、近頃変よ。稽古の時もぼうっとしちゃってるしさ」
「そう?」
「もしかして体調悪いんじゃない?」
友人は心配そうな顔で訊いて来る。
「別に……何ともないけど」
「ほんとに? だって、ほら、あの手術を受けてからずっとそうだよ。やっぱ、あれがよくなかったんじゃない?」
「そんなことないよ。わたしはすこぶる元気なんだから……。もう一回提供したって平気なくらい」
リンダはオーバーに手を広げて見せた。
(そうよ。わたしは元気。そのわたしの骨髄液をあげたんだから、きっとあの子だって元気になる。ジョン、あんたは特権階級の子なんだから……。そして、その特権を使って、わたしを見つけ出し、骨髄を提供させた。わたしは……あなたに生きて欲しかった。顔も見たことがなかったけれど……生きていて欲しかった。弟の分まで……)

複雑な感情が横断歩道を過って行った。
低空で飛ぶヘリコプターの影。
信号の赤いランプが瞬いている。
「いやだ。テロですって」
「武装集団が医療センターを襲ったって……」
「怪我人が大勢出ているらしいぞ」
歩道の向こうでは号外が配られていた。
「医療センター……?」
リンダは配っていた男の手から号外を受け取ると食い入るように見つめた。
「死傷者12名……。犯人は入院治療中だった少年一名を拉致。現在も逃走中……」
(ジョンだ)
リンダは新聞を握り締めると地下鉄の方へと駆け出した。
「リンダ! ちょっと、どこ行くの?」
友人達が呼び止めた。が、少女は振り向かない。あっと言う間に地上から見えなくなってしまった。


気がつくと、高い天井で灰色のプロペラが回っていた。
(何だろう。あれは陸戦用の……)
アルコールと埃のにおいがした。それから男達が話すアラブの言語とコンピューター。
(ここはいったいどこなんだろう)
ジョンは身体を起こそうとして顔を顰めた。両手は後ろで縛られ、身体のあちこちが痛かった。
(そうか。ぼくは連中に……)
幸い、男達は皆背中を向けていて、ジョンが目覚めたことに気がつかない。
(まずは情報を手に入れなくちゃ……)
少年は薄目を開けて部屋の中を観察した。自分が寝かされているのは、布が変色し、スプリングが露出しているようなカウチ。部屋は暗くて窓がない。3メートルほど離れたところに武装した男が四人。大きなテーブルを取り囲むように座っている。
そこにはノートパソコンが2台。彼らはその画面を眺めながら会話している。そこに何が映っているのかは男の背中に隠されて見えなかった。ただ、テーブルにはビールのジョッキが五つ。少なくとも、あと一人は仲間がいる。外で見張りでもしているのかもしれない。外に通じるドアは男達の向こう側。ジョンからは最も離れた場所にあった。他には小さな冷蔵庫と扉の付いたロッカーが幾つか並んでいる。男達はそれぞれ銃を携帯していた。

「おい、そろそろ時間じゃないのか?」
男の一人が訊いた。
「いや、まだ20分ある」
別の男が腕時計を見て応じる。
「今頃は緊急会議の真っ盛りなんだろうぜ」
「へっ。じれってえな。爆弾はもう仕掛けてあるんだ。とっととやっちまおうぜ」
「交渉が先だ。少なくとも、アメリカ軍の全面撤退と仲間の釈放は約束してもらわないと」
「それに金だろ? せっかくご招待したんだ。坊主がどれだけ有効なのか確かめないとな」
そう言うと彼らの中で最も体格のいい男は少年を見てニヤリとした。
「どうやら噂の坊やがお目ざめのようだ」

そうして男はジョッキを持ったまま近づいて来て子どもを見降ろした。
「おい、アメ公のガキ、目が覚めたんなら挨拶くらいしたらどうだ? 何ならおはようのキスをしてもいいんだぞ」
「無礼な奴にあいさつをする義理はないよ」
ジョンはぱっと目を開いて言った。
「無礼なのはどっちだ! 人の国にずかずかと土足で侵入した暴力集団の輩が……!」
固い靴の先で少年の脇腹を突いて言う。
「それはおまえ達の方だろ? 罪もない人々を大勢殺した殺人鬼め!」
ジョンは苦痛を堪えて男を睨む。
「はは。勇ましいこったな。さすがはあの英雄マグナムの息子だけのことはある。大いに褒めてやるぜ」
そう言うと男はジョッキの中のビールを少年の上に浴びせた。
「ほうら、乾杯しようぜ」
泡と液体の臭気で少年は噎せ、激しく咳込んだ。パジャマもびしょびしょだ。ヒーターはあるようだが、部屋の温度は低い。着替えなければ風邪を引く。だが、そこに彼の着替えがある筈もない。
それなのに、そんな心配をしている自分に、少年は皮肉を込めて笑った。
「何がおかしい?」
男が訊いた。
「別に……」
「言え!」
男は少年の襟首を掴んで揺する。
「おじさんのことじゃないよ。ただ、こんなことになってしまったから、今日はもう痛い注射はしなくてもいいんだと思ったらうれしかったんだ」

「注射だと?」
「そうだよ。すごく痛いんだ。特に脊髄にする注射はね。大人だって泣いちゃうんだって……。おじさん、そんな注射をしたことある?」
その時、男の仲間が呼んだ。
「カシム、いつまでガキと遊んでる? 任務に戻れ!」
「別に遊んでた訳じゃねえよ」
カシムはぶつぶつ言いながらテーブルに戻ろうとした。
「あ、待って!」
それを少年が止めた。
「何だ?」
剣の有る表情で男が振り向く。
「ぼく、濡れたらおしっこに行きたくなっちゃった」
「我慢しろ!」
「できないよ。だって病院にいた時から行きたかったんだもの。でも、読んでた本があんまり面白かったから、きりのいいところまで読んでしまってからと思っていたんだ」
「仕方ねえな。立て!」
男は襟を掴んで少年を立たせた。
仲間達は無視してパソコンのモニターに見入っている。その一つの画面には見覚えがあった。
(あれは、ぼくのサイトだ)

何故それがここに表示されているのかわからない。彼らは自分があのサイトの運営者であると知っているのだろうか。だとしても妙だ。ゲームを含め、昨年12月から、サイトは更新していない。具合が悪かったのと、あれが、軍の本物の情報だとわかってしまったからだ。
(ちっ。やっぱりまだ更新されてないようだな。せっかく使える情報だったのに……)
病院でキャシーを撃った男が言った。
「何をしている? 便所はこっちだ」
カシムが腕を掴んで引っ張った。
「あ、うん。ちょっとちびりそうだったから……」
立ち止まってしまった言い訳をしてジョンはわざと歩幅を縮めてゆっくりと歩いた。
(使えると思ったのにな)
「せっかく軍の情報を流してくれる協力者だと思ったのに残念だな」
「これだけ正確な情報だ。恐らく内部の人間だろう。今頃は軍法会議かもな」

背中でそんな会話が聞こえた。
(彼らは知らないんだ)

そこにヒントはないかとジョンは考えた。何か画期的な突破口は……。
「そこだ。早くしろ!」
男が睨みつける。
「手、解いてよ」
「何?」
「これじゃできないもの」
ジョンは後ろ手に縛られた手首を振った。

「わかった。だが、少しでもおかしな真似をしてみろ、頭が吹っ飛ぶぜ」
大型の銃を突きつけて男が凄む。
「わかってるよ。ぼくは自分が強くないって知ってるもの。ぼくは映画のヒーローにはなれないってね」
(そう。ぼくはパパのようにはなれない……はじめからちゃんとわかってた)
「ドアは開けておくんだ。いいな?」
「……うん」
彼は逆らわなかった。個室の中は汚物で汚れていた。ジョンはそれを避けて用を足した。
「寒い……」
ふと見上げると高いところに小さな窓が一つあった。それは、とても脱出口にはなりそうになかった。しかし、僅かに開いた窓の隙間から覗くゴンドラを、彼は見逃さなかった。

「ねえ、あれってポートツリーのドラゴン観覧車じゃない?」
さり気なくジョンが訊いた。
「ぼく、小さい時、一度だけ乗ったことがあるんだ」
「ポートツリー? 違うだろう。あれはコスモメリー……」
男がはっとしたように口を噤む。白い照明の中で閃いた少年の影。が、次の瞬間にはもう無邪気な微笑みを浮かべてカシムを見上げた。
「なーんだ。がっかりだな。ぼくはもう一度ドラゴン観覧車に乗りたかったのに……」
そう言って男の脇を通り過ぎようとした。
「待て!」
カシムがもう一度彼の両手にロープを巻き付けようとした時。突然、部屋の明かりが消えた。
「何だ? 停電?」

が、蛍光灯が何度かフラッシュしただけで、すぐに部屋の中は元通りになった。ヒーターが可動し、2台のコンピューターが再起動を始める。
「脅かしやがって……」
「ほんとだね。ぼくもすっごく怖かった」
そう言うと子どもは男の腕に捕まった。
「よし。そのままゆっくりと歩いて来い」
カシムは少年に命じると仲間達の背後を通り過ぎようとした。
「何だこれは……」
機動したコンピューターの画面は完全にフリーズしていた。

「肝心な時に……くそっ!」
キーボードを叩いて男が喚く。
「だめだよ。そんな乱暴なことしたらコンピューターが壊れちゃう」
ジョンが言った。
「何だと? このガキ、知ったような口を利くな!」
「ほんとだよ。コンピューターは繊細なんだ。やさしく扱ってやらなきゃ……」
「やさしくも何もあるか! 見ろ! こんな滅茶苦茶な……」
画面にはランダムな記号が飛び交っている。
「壊れちまったんじゃないのか?」
別の男が画面を覗いて言う。
「どうすんだよ、遠隔操作できんのはこいつだけ……」
「黙れ!」
リーダーらしい男が怒鳴る。
「データはバックアップしてんだろ?」
「だからってこんな夜中に新しいコンピューターを調達する時間なんかないぜ」
テロリスト達は喧々諤々と言い争いを始めた。

「それ、直せるよ」
ジョンが言った。
「何だと?」
男達が一斉に目を剥いた。
「ぼくなら直せると言ったんだ」
「嘘を言うと承知しないぞ」
「嘘じゃないよ。証拠は……。ぼくがあの戦略シュミレーションゲームサイトの管理人、ジークフィッシュだってことさ」
「何だと?」
「馬鹿な……こんなガキにあれだけの情報が操作できるものか!」
「いや、こいつは、あのマグナムの息子だ。やれるかもしれない……」
「いくらマグナムの息子だろうと、こいつは……」
「できるんだよ」
ジョンは素早くコンピューターを操作すると、たちまちエラーは解消し、ジョンが運営するゲームサイトが表示された。
「それじゃ、ほんとにおまえが……」
「あなたがレギー? こんなところでお会いするとは思わなかったよ」